2009/09
幕末・明治初期の技術者 小野友五郎君川 治


築地軍艦操錬所(写真)
 小野友五郎に関しては、生家・記念館・銅像などが見当たらない。軍艦操錬所教授方として、幕府海軍の要職につき、咸臨丸艦長として小笠原群島を測量し、勘定奉行並に昇進するが、明治政府での地位は下級官吏。退官後、明治31年に82歳で没するまで、製塩業を始めとして民間で活躍しているが、勝海舟のような派手な立ち回りを好まず、技術者として質素に生涯を終えている。
 幕末に小型蒸気軍艦「千代田形」の建造に携わった小野友五郎は長崎海軍伝習所の1期生で、2期生の肥田浜五郎と共に伝習を受けた仲間であった。日米和親条約調印の時、米艦ポーハタン号に伴走した幕府軍艦咸臨丸に小野友五郎は測量方兼運用方(航海長)として乗組み、肥田浜五郎は蒸気方(機関長)として乗組んで、共にサンフランシスコで米国の造船所を見学してきた。
 小野友五郎は1817年に笠間(茨城県)で生まれた。笠間藩算術世話役甲斐駒蔵に入門して和算を習い、江戸詰となって師駒蔵の学んだ関流和算家長谷川弘の算学道場に入門した。長谷川弘は地方(じかた)算法を得意としており、田畑や敷地の測量や地図の作成について学び、師匠と共著で「量地図説」を刊行するほど、算術は得意分野であった。
 1852年には開明派の代官江川坦庵の推薦で幕府天文方に出仕を命じられる。天文方は天文観測や暦の作成、地図の作成を行っており、三角関数・対数・平面三角法などの西洋数学が既に使われていた。さらに、伊能忠敬の地図測量法についても学んだが、この測量法は三角測量ではなく、角度と距離を測量する方法と現在位置を星の観測で決める方法の併用で、この方法が航海航法術と同じであった。
 長崎海軍伝習所では、難解な航海術をオランダ通詞が理解するのに苦しみ、理解できるのは小野友五郎など少数であったと云われている。数学の得意な友五郎が、夜間に日本語による航海術補修授業を担当した。約1年半の伝習を終って、幕府軍艦操錬所の教授となり、幕府海軍の要職を担って大活躍する。
 ・蒸気艦「千代田形」の船体基本設計
 ・江戸湾実測・暗礁図の作成
 ・小笠原群島の測量
 ・横須賀・横浜製鉄所(造船所)候補地の測量
 ・米国ニューヨーク・ワシントンへ派遣(17代ジョンソン大統領に謁見)
 ・勘定奉行並に昇進(今なら大蔵省課長?)

 海軍伝習所で1期生同期の勝麟太郎は気宇壮大で政治家向きだが、海軍士官としての技術習得に欠けるところがあったようだ。咸臨丸艦長として渡米した時に無能ぶりが暴露され、帰国後は海軍から遠ざけられた。鳥羽・伏見の戦いで幕府は瓦解し、一大名になった徳川将軍家の軍艦奉行となった勝海舟は、朝廷に対するスケープゴートとして旧幕臣の処分を提出した。重罪は平山昌義と小野友五郎、厳科(蟄居・閉門)は永井玄蕃、平山図書、榎本武揚など 海軍の上司・同僚などであった。
 明治政府は海軍の再構築のため人材確保を急ぎ、小野友五郎にも海軍への出仕を再三要請したが断り続けた。
 小野友五郎は明治3年に民部省に出仕して新橋〜横浜間の鉄道路測量の仕事に従事する。鉄道事業がその後工部省鉄道寮に移管され、鉄道寮の測量技師として東海道・中山道・東北道の測量に従事し、明治10年に62歳で退官した。
 小野友五郎の業務は現代風に云えば事業のフィージビリティ・スタディである。実際の上申書を例に述べると次のようになる。
 ・東海道は名古屋から先、桑名・鈴鹿を通る道は険しく費用がかかる。中山道に沿って関ヶ原から草津に出る方が費用が少なくなる。
 ・中山道を通る鉄道を開設すればこれから支線を引いて沿線の未開拓地の開発に寄与できる。しかし、和田峠(諏訪)、鳥居峠(木曽)は道が急峻で鉄道には不適である。
 ・東北道は鉄道に適しており紡績業などの産業に寄与する。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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